頑張る理由と「退屈」という名の地獄

はじめに

皆様、明けましておめでとうございます。
そして、お久しぶりです。

まず初めに、今までの僕の過去のブログを一度でも見てくださった方、現に読んでくださっている方、本当にありがとうございます。

実は、初めての投稿はもう4年前、前回の投稿から2年ほどが経っており、一度はブログを削除しようかと考えておりました。ですが、何年後かに自分を振り返ることが出来る場所としても残しておきたいという想いから、これからも自分なりに書き留めていくことにしました。

それにしても月日というのは本当に早いものですね。「20歳を過ぎると、より一層、時の早さを感じる」と言いますが、まさにその通りだと感じます。あっという間に一週間が過ぎ、あっという間に半年が過ぎ、そしてあっという間に一年が終わってしまいます。

2019年は皆さんにとって、どのような一年だったでしょうか。素敵な一年であったことを願い、2020年も素晴らしい一年になることを心から祈っております。

さて今回は、僕がブログをお休みしていた2年間の期間に大切なことだと気付いたもののお話をさせていただきます。僕自身に向けたメモのようにも書いているので、少々読みにくいと感じたら申し訳ございません。

読んでくださる方はあまり深読みなさらずサラッと読んでいだたければと思います。
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軸を持ちつつ、柔軟性を持つ

僕、人間ってつくづく、「”良い”か”悪い”か」「”Yes”か”No”か」「”表”か”裏”か」のように、何かと決めつけたがる生き物だと思うのです。

僕の周りでよく聞くのは、「日本は〇〇だから、もう日本社会はだめだ。」「海外では〇〇だから、日本もこうあるべきだ。」「あの人はこういう人だ。」などなど。例をあげたら本当にきりがないのですが、要は「あれはいい、これはだめ」「あれはこうだ、これはこういうものだ」という様な感じですね。とても断定的とも言えます。

決めつけるということは、目先のことを優先し、その先にある可能性は考慮しないことになってしまうので、そういうお話を聞くと少し残念な気持ちになります。

さらには、そういった意見を互いにぶつけ合って、まるで「どちらが正しいか」などと競い合っているような人達も見かけます。面と向かって言い合っている人もいれば、Twitter等のSNS上が争いの場になっていることもありますね。

僕はそういうのを見てて思うのですが、「自分の持っている意見をまかり通すこと」が「自分の意見を持つ」、はたまた「自分を持っている」ということになるのでしょうか。僕は少し違うかなと思っています。

とりわけ、個々の主張が強いとされるアメリカでも「自分の意見を持つ」ことは良いことであると認識されています。それが故に、僕も昔は自分の意見を周りの人と共有をするのが好きでした。

意見を交換する中で「それは違う!」と相手の意見や主張に対して反論をしてみたり、「僕はこう思う!」という自分の考え方を出そう出そうとばかり考えていました。それが「自分の意見を持つ」「自分を持っている」と勘違いしていました。

そして最終的には、自分の考え方や意見が周りの人に「受け入れられること」「共感されること」に嬉しさを感じていました。

それはきっと、心の奥底にある「周りに良く見られたい」「認めてもらいたい、認めてほしい」という承認欲求からなる行動であったと思います。今思えば、とても恥ずかしい行動だったと思います。

しかし、この数年間で「自分の意見を持つ」や「自分を持つ」というのは、そういったものではないことを大いに学びました。

まず初めに気付いたことは、「自分の意見持つ」ことを意識し過ぎると、気付かない内に考え方に偏りが出てしまうということです。「意識をしないと自分には偏りが出てしまう」と気付けただけでも、僕にとっては大きなことでした。

例えば、「自分」や「自己」というものに意識がいきすぎてしまうと、人の話や周りの意見を聞けなくなってしまいがちになります。なぜでしょうか…。

僕が思うには、大抵の場合、もう既に自分の中に「答え」が存在しているからだと思います。ここで言う「答え」というのは、「自分自身があっていると信じている意見」に等しいとします。

そして厄介なことにも、その「答え」はなかなか揺るぎ難く、決めつけてしまっている答えであることが多いのです。これが重症化すると、いわゆる「頑固」に繋がってしまうこともあると思います。

そして、その「答え」は、実際にあっているか、間違っているかは置いておいたとしても、特定の人の発言のみによる変化しか期待ができません。

つまり、無意識で「この人の話は聞く」「この人の話は聞かない」と区分けし、特定の人の話しか耳に入ってこない状態です。

「自分が認めた人」や「身上だと思う人」の話は入ってくるけれども、それ以外の人達の意見が入ってこない。そのような状態では、考え方に偏りが出てしまうのも無理はありませんよね。

そもそも人間は、「自分は間違っていた」と認めることにとても嫌悪感を抱く生き物であり、それも「自分の認めていない人」に言われるほどに不快感を感じてしまいます。

「じゃあ人の話を何でも聞くのか!」と思う方もいるかもしれませんが、そういうわけではないのです。

僕が言いたいのは、相手が誰であろうとも、時には「自分」を譲り、相手に寄り添ってみて、必要とあれば相手の考え方や意見を受け入れてみる。

大事なのは、「自分の考え方を保ちつつ、相手を受け入れられる心構え話を聞ける姿勢でいられること」だと思うのです。

軸を持ちつつ、柔軟性を持つ。

シンプルで簡単に聞こえるかもしれませんが、これって意外と難しいんです。

人は知識を蓄えるほどに賢くなる反面、ついつい自分が強くなりすぎてしまい、大事な柔軟性を失いがちです。さらに、年を重ねると、余計に自分の考え方に固執してしまうこともあります。

でもきっと重要なのは本人の意識次第であって、年齢など関係ないと思うのです。

僕はこの事に気付いてから、少しだけ物事への考え方が変わりました。

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いつの日かの大学時代でこんな授業がありました。

まず、決められたお題に対して「Yes派」と「No派」の2つに分かれて、限られた時間の中で議論を重ねます。途中で意見が変わったらそちら側に移動し、最終的に時間内に人数が多い方の勝利という授業です。

その中には、どちらか一方に、「最初から最後まで動かない人」もいれば、「どちらか迷っている人」もいました。

僕は、「どちらか迷っている人」でした。

「どちらか迷っている人」は傍から見たら、「自己判断が出来ない人」「優柔不断な人」と認識されがちですが、そうとは限らないと思います。僕は何も、「自分の意見を持っていない」が故に、「どちらか迷っている人」でいたわけではないのです。

良いものにも悪いところがあり、悪いものにも良いところがあるという観点から「"Yes"か"No"」という極端な二択では決めることが出来ずにいただけなのです。

両サイドの意見を聞けるように心掛けたからこそ、「答えの中間」の様な位置にいるようになりました。毎回、必要以上に悩みすぎて、判断が全く出来なくなってしまうのは話が違いますが、状況によっては「中間にいる」という判断もありだと、今は考えます。

何でもかんでも、良いか悪いかで決めつけ、無理に自分の意見を持とうとする必要はないと、そう思っています。

それに、どちらか一方の意見にいたときって「自分側の良いところ」と「相手側の悪いところ」は比較的に目に入りやすいですよね。

大切なのは、「自分側の悪いところ」「相手側の良いところ」までをしっかり考えて判断が出来ることだと思います。

仮に、ある一方が「双方のデメリットを比べても、〇〇の方がいいに決まっている」と主張するのは、その人の観点でしかなく、それでは個人の主張の押し付け合いになってしまいます。

「自分の意見をまかり通すこと」が「自分の意見を持つこと」ではないと同時に、「あれはだめだ、これはだめだと言える人」が「自分の意見を持つ人」ではないのです。

なので今の僕にとって「自分の意見を持つ」というのは、80%程の自分の考えと、20%程の空きスペースを持つ、そのような感覚です。

自分の意見が100%ではかたすぎると思います。90%では、上記であげたように、特定の人の意見しか受け入れ難くなり、偏りが出てしまう可能性が高いです。ですが、80/20の余裕があれば、柔軟性を保ちながら、偏りの少ない意見を構築できると思います。

僕はアメリカに行って「自分の意見を持つ」ことの重要性も理解しましたが、同時に「自分の意見を持ち過ぎるのは良くない」ことも理解し、それよりも「人(相手)の意見を聞く」ことの重要性を理解しました。

皆さんは「これはこうだから、絶対にこうだ」「あの人はあういう人だ」などと決めつけた考え方に縛られていないでしょうか。

それが故に、特定の人の話以外が聞けなくなったり、無意識にも特定の人以外の話を受け入れられなくなったりしていませんか。

僕はようやくこの歳になって自身の姿勢を見直しました。

”良いと思うものにも良くない側面があり、悪いと思うものにも悪くない側面がある”

”あの人って良くないところもあるけれど、良いところもたくさんあるよね。”

決めつけ過ぎない。そんな思考の柔軟性。

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プラス(+)にはマイナス(-)があり、マイナスにもプラスがある

頑張る理由はどこにありますか

皆さんは現在、仕事や学業、それぞれ「何か」を頑張っていらっしゃると思います。「頑張る」って言葉では簡単に聞こえますが、とても大変なことだと思います。

ところで、皆さんはどのような「頑張り方」で頑張っていらっしゃいますか。

僕の「頑張り方」は、『①無我夢中に出来るところまでやる ②疲れてばったり休憩 ③また追い込む』という繰り返しで、回数をこなしていきながら物事を進めていきます。

頑張り方には様々な方法があると思うのですが、僕のケースは少し極端であるので、正直あまりおすすめは出来ません。

なにゆえ、エンジンがかかると、途中で給油せずに、走れるところまで行こうとしてしまうのです。正直これに関しては、少しずつ直していきたいと思っています。

この頑張り方ではアップサイドダウンが激しいので、気分がドンと下がってしまった際には「自分は一体何をやっているのだろう…。」などと考え込んでしまうことがあります。

そういった時には「なぜ頑張っているの?」と自分に問いかけて、もう一度頑張れるように、「頑張る理由」を自分で再確認するようにしています。

やはり、「なぜ」という理由無くして行動をするのはとても難しいんですよね。

とはいっても、深く考えすぎては路線が外れてしまうので、自問するのは、①「なぜ頑張っているのか」➁「頑張れる根源はどこから来ているのか」③「誰のために頑張っているのか」の3つです。

これら全部をここで話してしまうと長くなってしまうので、この章では「誰のために頑張っているのか」に限定してお話します。

「誰のために」、僕は留学した当初は「家族の為」というのが一番でした。それもそのはず、多額の授業料を出してくれている家族の為に、そのために勉強を頑張ろうといった想いです。

そこから年を重ねていくと共に、「自分の為」や「未来の為」と考えていきます。自分の未来は自分で切り拓く、明るい未来にしたい、そんな想いでした。

「家族の為」も正解で、「自分の為」「未来の為」というのも正解だと思っています。上記でもあげたように、これが絶対!!という1つの答えを探さないようにと思っていますので、どれも間違っていないと思っています。

ですが、僕の場合、「自分の為…身内の為…」と思い込みすぎてしまい、勉強が辛く感じてしまう時期がありました。自分の為と分かっているのに、なんだか力が出ない、、、そんな日々が続きました。頑張ろう頑張ろうと思うほどに空回りしてしまっていました。

自分自身と葛藤しながらも、そこから少しだけ視野を広げて、家族や自分の未来の為という身内の想いから、「社会の為」と考えるようになりました。少しだけ、考え方も内側から外側に向けられるようになった頃です。

本当に幸いなことに、僕はアメリカという素晴らしい環境で様々な経験をさせてもらいました。そこで、とても恐縮なのですが、それらの経験を少しでもいいので何らかの形で社会に還元したいと思っています。

でも正直、「社会の為」「社会に還元」などといっても「社会を変えたい!」とかそんな大きなことを考えているわけでないのです。ただ、頑張って得た知識や経験を少しでも誰かの為に、誰かの役に立てるように活用できれば、と思っているだけなのです。

「社会の為」って少し解いてみると、「人の為」であり、「他人の為」だと思います。

そこで僕は、自分の為に頑張れる力も素敵なことだけども、人の為に頑張れるのはもっと素敵なことだと気付きました。そして、自分ではない、他の誰かの為に頑張れる時というのは、自身の想像を越える力を発揮出来ると思っています。

「お客さんの笑顔が見たい」「”ありがとう”という言葉を聞きたい」そんなシンプルなことでも、実はとても素敵なことで、シンプルな理由こそが、時には大きな原動力になりうるのです。

自分のやっていることで誰かが喜んでくれたときって嬉しいですよね。

その嬉しさを感じることこそが、人間らしさであると思います。

そして、その嬉しさがまた頑張ろうと思える新たな原動力です。

もし世界中に「自分の事しか考えられない人」で溢れてしまったら、どのような世界や社会が生まれるでしょうか。容易に想像できますが、とても成り立たないと思います。

もちろん、現実では心無い人達もたくさんいます。それでもきっと社会は無意識にも、「人の為」という想いを持った人達の気持ちと行動でうまくバランスが取れているんだと思います。

今日もまた、幸せで豊かな一日が送れるのもそういう人達がいてくれているおかげであり、そうであれば僕も人の為に出来ることをしたいと思っています。

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自分のために、人のために。

「退屈」は地獄

僕は、ありとあらゆる感情のなかでも、「退屈」という感情は、とてつもなく辛い感情だと思っています。これは僕自身の経験から感じたものなのですが、本当に辛いです。大袈裟ではなく、僕にとってはタイトル通り、地獄そのものだと感じました。

退屈は「同じ作業の繰り返し」をしていると感じたり、「自分の能力が今いる環境とマッチしていない」と感じたり、と様々です。

退屈を感じる瞬間は本当に人それぞれなので、一概に定義をすることは難しいのですが、僕の場合は「誰かの役に立っている実感がない」ことが退屈に繋がる原因のひとつだと感じました。

話が少しだけ逸れてしまうのですが、僕はアメリカで幾度の挫折を味わいました。

正直言いますと、何回も心が折れました。虚しいまでにプライドや自信を失ったことがあります。

もちろん理由はひとつではないのですが、一番の挫折を感じたのは4年制大学へ編入した際に、周りの賢い人達に圧倒されてしまった時です。

比べる必要はないと分かっていても、周りの人の凄さに自分自身が情けなく感じてしまいました。そして、自分のちっぽけさを思い知らされました。

そんなことかと思われるかも分かりませんが、アメリカで過ごす日々の中には、時に悲観的になってしまう、そんな辛い日々もたくさんあったのです。

自分の知らない、未知の世界へ足を踏み入れるときって最初はとても緊張しますよね。僕はそういった世界に一歩を出す勇気はある方だと思います。自分よりも賢い人達に囲まれて、自分を高めたいと願う向上心は確かにありました。

しかし、現実世界は何百倍も厳しい世界であり、競争が激しく、それはある意味素晴らしい環境だったのですが、いつしか、「追いつけない自分」に虚しさと劣等感を感じていたのです。やってもやっても、「追いつけない」と感じてしまう、そんな心の状態でした。

いつの日か心がポキっと折れてしまい、何も力が入らなくなってしまい、僕はそこから心が空っぽの状態が続きました。まさに自信喪失です。何をしても、心は空っぽで、実質「何も出来ない日々」を過ごすことがありました。

忙しかった日々から、何も出来ない、呆然とした日々に変わりました。この呆然とした暇な日々は、僕にとってはまさにどん底に突き落とされた気分でした。

「暇」「退屈」を生み出します。そして、「退屈」は非常なまでに「自尊心や自己肯定感」を引き下げます。

まるで、自分は何も役に立っていない、役に立てる人間ではないと、自然とそう感じてしまう精神状態になりかねます。僕は初めて「退屈」を知り、それと同時にその恐ろしさを知りました。

しかし、プライドも自信も叩き潰されて、自分自身をも失い、そこから学んだことがあります。

僕は心からテクノロジーが大好きで、僕の人生にとって根幹をなす、とても大切なものだと心から気付きます。僕にとって、テクノロジーとかけ離れて過ごす日々はとてつもなく退屈でした。

そして何より、人の役に立っていないと感じる日々を過ごすことは、とてつもなく地獄でした。

前章でも書いたように「人の為に」と思えることが僕にとっての大きな原動力だったので、その想いを失っては、生きている心地すらしなかったのです。そして、僕は良くも悪くも、人の役に立ちたいと思う意志が自分で思っていた以上に強いことにも気付きました。

せっかくの人生において、退屈を感じる日々を過ごすのは本当に残酷なものです。僕はもう、あのような想いはしたくないと心から思います。

この2年間で良いことも悪いことも経験したからこそ、改めて気付かされたことがたくさんありました。

これからも色々と挫折や困難に出向くと思いますが、自分が大切だと思うことは見失うことなく、強く、そして優しく生きていきたいと思います。

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